日本語が大好きな活字中毒者が、世の中で起きていることをまとめたサイトです。

ルンルンアンテナ

作家の比喩

過去にツイートした比喩を著書、著者別にまとめました。
山本文緒『きっと君は泣く』
田辺聖子『むかし・あけぼの』
山本文緒『ブルーもしくはブルー』
篠田節子『銀婚式』
村上春樹『1Q84』
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
奥田英朗『沈黙の町で』
山本文緒『あなたには帰る家がある』
村山由佳『星々の船』
帚木蓬生『国銅』
立原正秋『残りの雪』
新田次郎『栄光の岸壁』
椎名誠『銀座のカラス』
池井戸潤『ロスジェネの逆襲』
岩木一麻『がん消滅の罠』
東野圭吾『ナミヤ雑貨店の奇蹟』
百田尚樹『錨を上げよ』
有川浩『フリーター、家を買う。』
小林 信彦『夢の砦』
唯川恵『恋せども、愛せども』
影山雄作『この世の果て』
辻 章『青山』
貴志祐介『悪の教典』





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山本文緒『きっと君は泣く』

◎ 母は今でも私を名前で呼ばない。「あなた」とか「ちょっと」とか、倦怠期の夫婦のようなぎごちない呼び方をする。
◎ 母を無視して、祖母は私の隣りに腰を下ろした。祖母の顔に笑顔が広がった。大きく咲いた菊のような迫力のある笑顔。
◎ その中へ私は入って行った。背広の海を滑るように進んで行く。目が合った人間には大袈裟なぐらい微笑みかけた。
◎ 自他ともに認めることだけれど、私には女友達ができにくい。少女漫画のようにハートを目に浮かべて片思いを語るクラスメート達に、私は馴染むことができなかった。
◎ 露骨に残念そうな顔をした男を、私は死んだ犬を見るように見下ろした。
◎ このやる気のなさ。全身のだるさ。胸の上に石を置かれたような苦しさ。そうか、私は落ち込んでいるのかと、枕を抱き締めてようやく気が付いた。
◎ 病室に戻ると、早いお昼が始まっていた。それぞれのベッドに食事が届けられ、患者たちはらくだのようにモソモソと口を動かしていた。
◎ ぼんやり眩くと、彼はコロンポのように片手で目頭を押え、白衣を翻して病室を出て行った。
◎ 私は野暮な男が好きなのだ。天使様のように清らかな心を持った、素朴な人が好きなのだ。好きだと思うだけで、何だかじわっと泣けてくる。
◎ エンジンを切ると、コンクリートに波がぶつかる音が聞こえた。巨大なクレーンや貨物船には、輪郭をなぞるように小さな明かりが灯っている。
◎ いつも死んだ魚のような目をしている母が、私を正面から睨朶つけた。通りかかった看護婦が、怪訶な顔で私達を振り返る。
◎ モノクロの写真なのに、唇が薔薇色なのが分かる。意志の強そうな瞳が宝石のように輝いていた。
◎ 七歳の女の子なりに可愛いが、美少女というわけではない。それに引き換え、祖母の美しさはすごかった。肌が陶器のようだ。
◎ 尻尾をびゅんびゅん振って喜ぶ犬のように、私は彼の所へ駆け寄った。
◎ 先生は飾ってあるシステムキッチンを、動物園のパンダを見るように眺めた。値段を見ては子供のように驚く。
◎ 何度思い出しても腹が立つ。中原先生のとぼけた洗い熊のような顔。鈍感にも程がある。まさか私の気持ちを全部分かっていて、わざと純情ぶっているのだろうか。
◎ 祖母の髪は、耳の下でざっくり切られていた。素人が鋏で切ったのだろう。あちこち不揃いな毛先が飛び上がっていた。銀狐のような髪は、今やただの白髪頭だった。
◎ 道端の酔っぱらいを見るような目で、患者たちは私を見た。誰も私の質問に答えない。
◎ そいつの言葉を信じるほど、私は馬鹿ではなかった。ただ、虫歯があるのを忘れてレモンを醤ったような、そんな痛みが胸を走った。
◎ さっきから電池が切れたように黙りこくっていた雛子が、こっくり首を垂れた。小さく「分かりました」と眩く。
◎ そこで突風とともに新幹線が滑り込んで来た。人形のようにぎくしゃくと車両に乗り込むと、雛子は私達のほうを振り向きもせずに通路の中に消えて行く。
◎ エイズが発病した人の写真を見たことがある。からだ中に染みが浮かび、白いシーツの上で枯れ木のように横たわっていた。
◎ そのとき店の扉が勢いよく開いた。弾けるような女の子達の声が入って来る。
◎ 愛する祖母は、今の私にとって重く大きな荷物だった。けれど古い洋服を捨てるようにポリ袋に入れてしまうわけにはいかない。
◎ もし陽性だったとしたら、それを聞いて私はどうするのだろうと思った。陰性だったら?陽性だったら?片思いを打ち明ける少女が花占いをするように悩んだ。
◎ 言葉を失った先生を残して、私は出口に向かって歩き出した。店に入って来たときコートを脱がせてくれた男が、逆回りのビデオを見るように、私にコートを着せてくれた。

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田辺聖子『むかし・あけぼの』

◎ それを聞いて、最初きょとんとしていた魚住の顔が、お化けでも見たようなすごい顔になった。
◎ 肩の肉なんか盛り上って、腕の力こぶなんか、荒行の修験者でもかなわないくらい、深山の百年杉のように太くてがっしりした首、一枚岩のようにぶあつく頑丈な胸板
◎ 家にいると片ときもそばを離れず、それかといって面白い話題を提供したり、考えついたりする気働きもないので、赤ん坊が乳をほしがるように、私の体ばかり貧っていた。
◎ 日がうらうらと、海面は青みどりの布を張ったよう、島影が見えかくれして舟歌ものどかにゆくうち、にわかに風が吹き、日の光はさっと曇ったかと思うと、海に波が立ち、舟ばたを叩く。
◎ 海女は海に潜り、私がおそろしく思って見守るうちに拷縄を引き、それを舟の上の男がたぐりあげる。水面に浮び出た海女は、笛のような息をはいて切なげである。
◎ 未明、舟から見ていると、小さなはしけが笹の葉を散らしたように浮ぶ。
◎ 撫子の花の種を築地の上にお蒔きになって、四方、唐錦を引きかけたようにめざましく咲かせたり、なすった。
◎ 父はひとまわり小さくなり、着物の中で体が泳いでいるようにみえたが、それでも、眼の輝きも声も、元気であった。
◎ 私は奇妙なことながら、亡父を懐うことが極楽を見るような思いに打たれた。
◎ やっと私の体を離して眠ったと思うと、たちまち、万雷の一時に落ちるようないびきをかいて眠るのだ。
◎ 弁のおもとの邸で、私はやっと、言葉の通じる世界に身をおいたように、のびのびするのであった。
◎ お返しの歌を按じながら、中宮に対する、つきせぬ敬愛の心が湯のように身内をあたたかく浸すのを私は知る。
◎ たとえば、このまえ、雪の降ったときの「香炉峰」の問答のように、ツーといえばカーと応じる仲になった気がするのは思い上りかしらん。

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山本文緒『ブルーもしくはブルー』

◎ 私は弱い磁力に引かれるように、ゆっくり首を左に向けた。司会の人が何か喋っている。仲人さんが紹介されて立ち上がる。
◎ 彼はもっさりと太っていた。岩石のようなでかい顔に太い眉毛。がに股の毛深い足。サークルの中で、彼はピテカン三本木と呼ばれていた。
◎ まるまる一カ月、私は悩んだ。後にも先にも、あんなに悩んだことはなかった。普段使わない脳みそを雑巾を絞るようにして考えた。
◎ ネタなどあってないようなものだ。プリントごっこで年賀状を印刷するように、私は作品の数だけをぽいぽいと増やしていった。
◎ 言われてしまったら、そうなのかもしれないと思ってしまう人間の弱さを私は知っていた。小さな虫食いのような不信は、やがて私を食い散らすに違いないと思った。





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篠田節子『銀婚式』

◎ 胃の奥のほうから、何か大きな虫が食道を這い上がってくるような、そんな強烈な不快感が湧き上がってきた。
◎ 後ろ姿は、背中から腰にかけて章クッションを巻いたように分厚く、ある種の海洋性のほ乳類を連想させた。
◎ スーパーのレジスターや家庭用ビデオのような完成された単一機能の機械と一緒にしてはならない、と高澤は食い下がった。
◎ 電源ボタンは急ブレーキみたいなものです。だけど、プラグを抜くのは回っている車輪に棒を突っ込んで止めるようなものなんですよ
◎ 彫りが深く、ウェーブした髪を後ろに流していたルネッサンス風の美男子であった彼は、今、整った顔立ちはそのまま、同じルネッサンス絵画の中の聖職者のように頭の中央が見事にはげ、どこかしら厳かな風貌に変わっていた。
◎ しばらくの間、身を落ち着けようという覚悟はできた。小さなケージの中で全力で車を回してきたような、これまでの生活を見直すいい機会かもしれない。
◎ ようやく気を取り直して、レジュメの次ページに進んだとき、教室内に金づちを打ち付けるような甲高い音が響いた。
◎ 若芽のような柔軟さと可能性が、高澤にはまぶしく、評価にも金にも業績にも直接結びつかない仕事にやりがいを感じている。
◎ 一瞬軌道を交わらせた二つの惑星のように、その心理的距離は、再び遠く離れてしまっていた。
◎ 淡い太陽の光さえ凍り付くように冷え込んだ三月初旬の午後、期末試験の採点をしていたところに、事前の電話もなく息子が突然やってきた。
◎ できるかぎり落ち着いた声色で話そうとするが、心臓は狂ったように打っている。
◎ 無意識のうちに一連の段取りを頭の中で反調するうちに、するりと恵美は布団の中に入ってきた。小動物が飛び込んできたような感触だった。
◎ 恵美の用意してくれたヨーグルトとグレープフルーツを口にすると、体中の細胞が生まれ変わったような壮快な気分になった。
◎ いつになく生き生きとした物言いだ。ためらいながら巣穴近くの枝を蹴り、風に乗って滑空していく若鳥の爽快な羽音が聞こえたような気がした。

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村上春樹『1Q84』

◎ 名刺を渡すと相手はそれをしばし凝視した。まるで出し抜けに不幸の手紙でも渡されたみたいに。
◎ そしてなにより車内が静かだ。遮音が行き届いているらしく、外の騒音がほとんど入ってこない。まるで防音装置の施されたスタジオにいるみたいだ。
◎ そして話し終えたあとに、含みのある小さな沈黙の塊が残った。車内の狭い空間に、それがミニチュアの架空の雲みたいにぽっかり浮かんでいた。
◎ なのにその音楽の冒頭の一節を聴いた瞬間から、彼女の頭にいろんな知識が反射的に浮かんできたのだ。開いた窓から一群の鳥が部屋に飛び込んでくるみたいに。
◎ 録音された拍手を長く聞いていると、そのうちに拍手に聞こえなくなる。終わりのない火星の砂嵐に耳を澄ませているみたいな気持ちになる。
◎ 「ヤナーチェック」と運転手は反復した。大事な合い言葉を暗記するみたいに。
◎ そしてまるでとめていた紐が切れて仮面がはがれ落ちたみたいに、彼女はあっという間にまったくの別人になった。
◎ 新人賞の応募作を俺が最後まで読み通すなんて、まずないことだ。おまけに部分的に読み返しまでした。こうなるともう惑星直列みたいなもんだ。
◎ 君にもわかるし、俺にもわかる。それは風のない午後の焚き火の煙みたいに、誰の目にも明らかに見て取れる。
◎ 何かあっていったん黙り込むと、月の裏側にある岩みたいにいつまでも黙っている。
◎ 髪を短く刈り、いつも日焼けしたような肌色で、耳はカリフラワーみたいに丸くくしやくしやで、文学青年にも数学の教師にも見えなかった。
◎ 「芥川賞」と天吾は相手の言葉を、濡れた砂の上に棒きれで大きく漢字を書くみたいに繰り返した。
◎ 君が本来書くべきものは、君の中にしっかりあるはずなんだ。ところがそいつが、深い穴に逃げ込んだ臆病な小動物みたいに、なかなか外に出てこない。
◎ 芥川賞でもとったら、ちょっとした話題になると思わないか。マスコミは夕暮れどきのコウモリの群れみたいに頭上を飛び回るだろう。
◎ だって編集者が自社の文芸誌の新人賞作品をでっちあげるなんて、株式で言えばインサイダー取引きみたいなものじゃないですか
◎ それにしてもどうしてこんなに騒音がひどいのだろう。どうしてこんなに風が強いのだろう。それらは私を答め、罰しているみたいにも感じられる。
◎ 目は驚いたような表情を浮かべたまま開いている。何かとんでもなく不思議なものを最後に目撃でもしたみたいに。
◎ 唇をまつすぐに結び、天吾の顔を正面から見ているだけだ。見たことのない風景を遠くから眺めるみたいに。
◎ 素敵な指だった。細い指の一本一本がそれぞれの意思と方針を持っているみたいに見えた。
◎ 数学は僕にとって、なんて言えばいいのかな、あまりにも自然すぎるんだ。それは僕にとっては美しい風景みたいなものだ
◎ ふかえりは視線をそらすことなく、天吾の目をまつすぐに見ていた。窓ガラスに顔をつけて空き家の中をのぞくみたいに。
◎ でも表に名前が出るのは君ひとりだけだ。あとの二人は奥に引っ込んで黙っている。芝居の道具係みたいに。
◎ ふかえりはキュウリをとりあげ、見たことのないものを味わうみたいに、注意深く畷った。
◎ 「ニチョウのあさはあいている」と疑問符のない質問を彼女はした。「あいている」と天吾は答えた。まるで手旗信号で話をしているみたいだ、と天吾は思った。
◎ その質問は彼女の意識の領域のどこにも着地しなかった。それは意味性の縁を越えて、虚無の中に永遠に吸い込まれてしまったようだった。冥王星のわきをそのまま素通りしていった孤独な惑星探査ロケットみたいに。
◎ それだけの動作に彼女は、ごく控え目に言って、普通の人のおおよそ三倍の時間をかけた。森の奥で滋養のある朝露を吸っている妖精みたいだ、と青豆は思った。
◎ 青豆はテーブルの上に置かれていた封筒を手に取り、そこに収められていた七枚のポラロイド写真を、上品な青磁のティーポットの隣りに並べた。タロット占いの不吉なカードを並べるみたいに。
◎ いつも同じ台詞で話は終わる。おそらくこの人は自分に向かってそう繰り返し言い聞かせているのだ、と青豆は思った。マントラかお祈りみたいに。
◎ そんなもの勝負にもならん。気の毒な警官が三人、ミシンをかけられたみたいにずたずたにされた。
◎ 背は決して高くないのだが、彼が立ち上がると、まるでそこに石壁が生じたみたいに見える。いつもその緊密な質感には驚かされる。
◎ チャールズは外見からいえば、皇太子というよりは、胄腸に問題を抱えた物理の教師みたいに見えた。
◎ 私の脳の中に、現実を作り替えようとする機能みたいなものが生じていて、それがある特定のニュースだけを選択し、そこにすっぽりと黒い布をかけ、私の目に触れないように、記憶に残らないようにしてしまっているのかもしれない。
◎ どこかの時点で私の知っている世界は消滅し、あるいは退場し、別の世界がそれにとって代わったのだ。レールのポイントが切り替わるみたいに。
◎ 私が生まれてこのかた辿ってきた人生の合法的な部分だって、お世辞にもまともとは言えない。汚れた洗濯物を押し込めるだけぎゅうぎゅう押し込んだトランクみたいなものだ。
◎ 電車はようやく心を決めたみたいにゆっくりプラットフォームを離れた。
◎ 電車が間もなく発車するという早口の簡単なアナウンスがあり、やがて旧弊な大型動物が目覚めて身震いするみたいに、ぶるぶるという大げさな音を立てて車両のドアが閉まった。
◎ 電車はようやく心を決めたみたいにゆっくりプラットフォームを離れた。
◎ 天吾は黙って肯いた。なんだかこれから結婚の申し込みに、相手の両親に会いに行くみたいな気分だな、と彼は思った。
◎ それからスキー場みたいな驚くほど急勾配の斜面を登り、小さな山の頂上らしきところでタクシーはようやく停まった。
◎ 庭木も美しく刈り込まれている。あまりにも丁寧に刈り揃えられているせいで、いくつかの樹木はプラスチックの造り物みたいにさえ見えた。
◎ 天吾の座っているいかだみたいに大きなソファがひとつと、一人がけの椅子が三つ。
◎ 身長は一六○センチほどだが、姿勢が良いせいで、貧相な感じはない。鉄の柱でも入れたみたいに背筋がまっすぐ伸びて、顎がぐいと後ろに引かれている。
◎ 「川奈天吾くん」と先生は名札を読み上げるみたいに言った。
◎ 「もちろん」と女は言った。そして何かの学説を検証するみたいに目を細めた。
◎ 小さな子供たちはよくそういう目で天吾を見た。害のない珍しい動物でも見るみたいに。
◎ そこで電話のベルが鳴った。それは青豆の耳には轟音に聞こえた。トンネルを抜けていく特急列車に乗っているみたいだ。
◎ 「大丈夫?ついさっきバスにひかれたみたいな声だけど」「それに近いかもしれない」
◎ とにかくソフトボールという競技に熱意を捧げた。(中略)彼女は強風に吹き飛ばされそうになっている人が柱にしがみつくみたいに、その競技にしがみついて生きた。
◎ 「ああ読んだよ。もちろん。じっくりと読ませてもらった。なんというか、かなり複雑な成り行きだ。まるで大河小説の一部みたいな話だ。
◎ 彼はその地域の地図をつくり、そこにいろんな色のペンでしるしをつけ、暇さえあればそれを点検していた。まるで生物学者が染色体を区分けするみたいに。
◎ そして暇があればむさぼるように本を読んだ。好奇心が強く、パワーショベルで土をすくうみたいに、多岐にわたる知識を片端から効率よく吸収していった。
◎ 陰毛は行進する歩兵部隊に踏みつけられた草むらみたいな生え方をしている。
◎ ですからあなたはその気持ちを、気球に碇をつけるみたいにしっかりと地面につなぎ止めておく必要があります。
◎ でもさ、私って青豆さんに憧れているんだ。さえない女子高校生みたいに
◎ こう言っちゃなんだが、たとえば冬眠明けの熊みたいな見かけの、三十歳の予備校数学講師が新人賞をとるのとでは、ニュース・バリューが違う
◎ 大きい方の月はいつもの月だった。まるでついさっき灰の山をくぐり抜けてきたみたいに全体が不思議な白みを帯びていたが、それをくつにすれば、見慣れた旧来の月だった。
◎ 私の知らないところで、世界は勝手な進み方をしている。私が目を閉じているときにだけ、みんなが動くことのできるゲームをやっているみたいに。
◎ 青豆はブランデーのグラスを手に、どうしても解けないパズルを眺めるみたいに、その大小一対の月を長いあいだ眺めていた。
◎ そこは不思議な空間だった。現実の世界と、死後の世界の中間にあるかりそめの場所みたいに、光がくすんで淀んでいた。
◎ 淡いグレーの長袖シャシに、濃いグレーのズボンというかっこうだった。相変わらず彫像みたいに背筋がまっすぐ伸びている。
◎ 手が疲れるとボールペンを置き、ピアニストが架空の音階練習をするみたいに、右手の指を宙で動かした。
◎ 「夫婦のあいだのセックスというのは、またちょっと違うことなの」と彼女は説明した。「それは別会計みたいなもの」
◎ 死体はまるで内側からべろっとひっくり返されたような状態になっていた。誰かが犬の腹の中に強力な小型爆弾をしかけたみたいに
◎ だいたいあの犬は知らない人間が近寄ってきたら、地獄の釜の蓋でも開けたみたいに吠えまくるんだ。
◎ 問題は週刊誌だ。フリーのライターだかジャーナリストだかが、血の臭いを嗅ぎつけた鮫みたいにうようよ集まってくる。
◎ そして天吾のペニスを載せた手のひらを何度か上下させた。エレベーターの試験運転でもしているみたいに。





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村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

◎ 日が昇ると目覚め、歯を磨き、手近にある服を身につけ、電車に乗って大学に行き、クラスでノートを取った。強風に襲われた人が街灯にしがみつくみたいに、彼はただ目の前にあるタイムテーブルに従って動いた。
◎ それが起こったのは大学二年生の夏休みだった。そしてその夏を境に多崎つくるの人生は、以前とは成り立ちの異なるものになってしまった。鋭く切り立った尾根が前後の植物相を一変させるみたいに。
◎ つくるが新幹線に乗って東京に戻るとき、四人はわざわざ駅まで見送りに来てくれた。そして列車の窓に向けてみんなで大げさに手を振ってくれた。まるで遠い辺境の地に出征する兵士を見送るみたいに。
◎ 沙羅は目を細めてつくるの顔を見た。物理的に理屈の通らない風景を検証するみたいに。
◎ こちらを見返しているのは、鋭い饅をあてたみたいに頬がまっすぐ切り立った、若い男の顔だった。その目には新しい光が浮かんでいた。
◎ その曲を演奏しているシロの姿が彼の脳裏に、びっくりするほど鮮やかに、立体的に浮かび上がってきた。まるでそこにあったいくつかの美しい瞬間が、時間の正当な圧力に逆らって、水路をひたひたと着実に遡ってくるみたいに。
◎ その過去の時間が、今ここに流れている現実の時間に、音もなく混入し始めていた。ドアの僅かな隙間から、煙が部屋に忍び込んでくるみたいに。
◎ 女たちの肉体がつくるの全身にしなやかにまとわりつき、絡んだ。クロの乳房は豊満で柔らかかった。シロのそれは小ぶりだったが、乳首は丸い小石みたいに硬くなっていた。
◎ 彼らはある日、出し抜けに姿を消してしまう。説明もなく、まともな別れの挨拶さえなく。温かい血の通っている、まだ静かに脈を打っている絆を、鋭い無音の大鉈ですっぱり断ち切るみたいに。
◎ 「ありがとう」と彼女は言って、それからページの端に小さな書体で脚注を添えるみたいに、「またそのうちに、あなたと会える機会があるかもしれないけど」と付け加えた。
◎ ホイールは鋳造されたばかりの銀貨みたいにまぶしく光っていた。ドアは金庫室並みの堅牢な音を立てて閉まり、車内はまさに密室だった。
◎ 遠くから見ても、昔と印象はほとんど変わりない。身体がひとまわり大きくなっただけだ。家族が増えて家屋が増築されるみたいに。
◎ 彼は上げていた手をおろし、膝の上に置いた。そして指で膝がしらを不規則なリズムをとって叩いた。まるでモールス信号でどこかにメッセージを送るみたいに。
◎ 一緒に食事をしていた坂本がそこで口を開いた。まるで洞窟の入り口を塞いでいる重い岩をどかせるみたいにおずおずと。
◎ しかし窓の外は真昼のように明るかった。空にはくっきりと白い半月が浮かんでいた。まるで使い古された軽石みたいに見えた。
◎ 今のうちにそのグループとの精神的な連動を解いておかないことには、その崩壊の巻き添えになり、自分も致命的に損なわれてしまうと感じたのかもしれない。沈没する船の生む渦に呑まれ、海底に引きずり込まれる漂流者みたいに。

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奥田英朗『沈黙の町で』

◎ 職員室の明かりが、夜の海に漂うイカ釣り漁船のように揺れて見えた。
◎ 署内ではたばこを吸える場所が限られているので、喫煙者たちは、食事時になると当直室に集まり、レジスタンスのようにこっそりと食後の一服を楽しむのである。
◎ テーブルに着き、弁当を開く。割り箸を剣のように擦り合わせると、猛烈な勢いで食べ始めた。
◎ 石井はビデオの早回しのように弁当を口に押し込んだ。お茶を飲み、胸を叩いて、強制的に胃袋に流し込んでいる。
◎ 校庭の周囲は水田で、数万の蛙たちが火のついたように啼いていた。
◎ 鑑識の警官はその下でも何かを探していた。せわしなく動き回る懐中電灯の光が、まるで蛍のように残像を残し、闇夜にいくつもの線を描いている。
◎ その背中を見て、豊川は思わず声を発した。そこには無数のどす黒い内出血跡が、ドット柄のように並んでいた。
◎ 一目で表情が硬いことがわかった。二人は、まるで不良グループに体育館裏に呼び出された下級生のような落ち着きのない目をしている。
◎ 中学生は残酷だ。恐らく人生で一番の残酷期にあるだろう。それは自立への過程で噴き出る膿のようなものだ。みながもう大人には泣きつかないことを知り、自分たちの生き残りゲームを始める。
◎ 五分が過ぎたので終わりにした。女子生徒が、桧から解放された小鹿のように駆けていく。
◎ 裏手には竹林があり、風にざわざわと揺れていた。そろそろ雨粒が落ちてきそうな空は、薄く墨汁でも塗ったような色合いで、所々の雲の濃淡が、見る者を不安にさせた。
◎ 豊川康平は、中学生相手という慣れない事情聴取にすっかり神経が消耗し、長旅帰りのような疲労感を覚えていた。
◎ 社会面はトップ記事で、現場となった校庭の写真も掲載されている。問題の部室棟と、それに覆い被さるように佇む銀杏の木の写真だ。
◎ 橋本が手摺に乗った。身は軽そうだ。柱に手を添えて立ち上がり、屋根の端に手をかけた。足場を確認し、ジャンプする。むささびのように一気によじ登った。
◎ 恵子は受話器を持ったまま、孤島に置き去りにされたような気分になった。みんなして、何の隠し事をしているのか。
◎ 彼らが一番恐れることは孤立で、ノリが悪いとか、真面目だとか、そう言われたくないばかりに常識を踏み外してしまう。池に浮かぶ水草のように、根っこがなく、不安定なのだ。
◎ 窓の外の中庭では蝉が怒ったように鳴いていた。梅雨が明けたら、もっとうるさくなるのだろう。
◎ 屋根の上から銀杏の木を臨むと、丁度握手でも求めるように一本の太い枝がこちらに向かって伸びていた。
◎ 中学生になってスキンシップする回数がやたらと増えた。女子はみんなそうしている。誰かと一緒じゃないと、裸にされたような不安を覚える。
◎ 一部の先輩も面白がってしごいた。わざわざ女子部の前で懸垂をやらせ、一回も出来ず、鉄棒に蓑虫のようにぶら下がるだけの名倉を笑いものにする。
◎ 椅子の向こうから、名倉がウィーン少年合唱団のような声で抗議した。その興奮ぶりと幼さがおかしくて、金子と藤田が「ちがうよ、ちがうよ」と声色を真似てからかう。
◎ クラスはまだ新品の靴のように、どこかごわごわしているが、日々馴染んでいく感じはあった。
◎ 腰をかがめ、タンと床を蹴り、滝を登る鯉のように体が宙に跳ねる。「坂井瑛介君、六十八セン」測定値が読み上げられ、「すげ-」とか、「ほんとに中二かよ」というため息交じりの声が聞こ最後は声が震えた。寛子は鼻息を荒くしながら、顔色をなくした校長と教頭を見据えていた。外では何匹もの蝉が嚇すように鳴いている。
◎ もう何も手に着かなくて、台所の後片付けも掃除も放棄した。つけっぱなしにしてあったテレビも消した。ただ腹を空かした熊のように、部屋の中を右往左往している。
◎ 堀田は突風のようにまくしたて、電話を切った。社長との会話から一転して、外国で置き去りにされたような心細さだけが残った。
◎ 高鳴る胸を押さえながら、手紙の続きを書こうとしたが、肘が震えてミミズがのたくったような文字になった。
◎ 圧倒的にA組が強かった。定規で線を引いたようにパスが通り、ポイントゲッターの瑛介がゴールを決める。
◎ 瑛介は機嫌がよかった。戦場から帰還した兵士のように誇らしげでもある。
◎ 餌を見つけたハイエナのように、藤田と金子がうれしそうにちょっかいをかけた。ポロシャツを引っ張り、生地を伸ばそうとする。
◎ 藤田が腕組みし、思い出すように言った。周りの生徒は宇宙から帰還した飛行士の話を聞くように、うんうんとうなずいている。
◎ 寛子が問うと、四人は首を九十度曲げて下を向き、閉じた貝のようになった。
◎ 電話を終えたときにはぐったりして、まるで一日の仕事を終えたときのような疲労感があった。
◎ 少年はうそもつくが、それ以上に伝達能力が低いため、事実をぼやかすことがある。彼らは羅針盤のない船のようなものだ。波に漂い、どこにでも流されてしまう。
◎ 相好をくずし、手を伸ばして肩を叩く。井上はやじるべえのように左右に大きく揺れた。
◎ 教頭と二人揃って扇子を取り出す。目の前で鳩の羽のようにパタパタと扇いだ。
◎ たちまち二巡目が始まる。今度は金子が助走をつけて、サッカーのフリーキックのように蹴った。パシンといい音が響く。
◎ 中学生は、鳥の群れのようなものだ。みなが飛ぶ方に自然と体が反応し、考えもなくついていく。
◎ 美咲の提案に愛子が前に歩み出た。恐る恐る手を伸ばす。背中の肉をつまむと、ねじを締めるようにひねった。名倉が歯を食いしばって耐える。
◎ 空は一面が淡い灰色で、障子紙のように無表情に広がっていた。

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山本文緒『あなたには帰る家がある』

◎ イーッと猿のように歯を見せて、朗はまた廊下をどたどたと走って行く。
◎ 新人なら誰でも一度はやるポカをちゃんとやり、客と課長に怒られたのだ。当の課長は泣かすだけ泣かして逃げるように営業所へ行ってしまった。
◎ ショートカットの髪は秀明の好承ではないが、リスのような小振りな顔は可愛いと思う。
◎ 真弓はチキンを小さく千切り、娘の口に入れてやった。冷ました番茶を少し飲ませると、ネジが切れたようにあっけなく娘は眠りに落ちた。
◎ こちらを見る真弓の顔に、ぱっと花のような笑顔が広がった。その顔は認めたくはないけれど、抱きしめてやりたいほど愛らしかった。
◎ それに引き換え、真弓はファッション雑誌から抜け出たようだった。スーツにハイヒール、金のイヤリングに絹のスカーフ。
◎ 秀明から結婚の承諾を受けた真弓は、まるで無罪判決をもらった被告のように、涙を流して喜んだ。
◎ 佐藤が何か話すのを、綾子は子供の話を聞くように優しく頷いて聞いている。ほらみたことかと太郎は思った。
◎ 祐子は仕方なく、差し出された丸くてドラえもんのような彼の手に恐る恐る触れる。そのとたん、ぎゅっと力を入れて握り返された。
◎ 弓は支部長が熱心に説明をする姿を見つめた。色白でふっくらしていて、お面の〃おかめ″をもう少し美人にしたような顔だ。声が鈴のように可愛らしい。
◎ 会社の名前と、普通の女の子は貰えない″名刺″を頼りに、石のように固くなって何とか仕事をこなしていた。
◎ 秀明と知り合って、その張り詰めていたものが切れた。結婚退職という四文字が、蜘蛛の糸のように天から下がってくるのが見えた。
◎ 二本の足があるのに、歩くのを禁止されているような、そんなフラストレーシヨンを真弓は感じていた。自分には能力があるのだ。その能力を使いたかった。
◎ 茄子田が秀明を呼び捨てにした。まるで生徒を呼びつけるような感じだ。
◎ 真弓は納豆のように粘る茄子田の視線から、やっと自分の視線をそらした。
◎ 真弓は返事ができなかった。余計なお世話とは思いながらも、茄子田の言うことが、乾いた土に水を撒いたように胸に沁みた。
◎ そんな弱い綾子の中心に、一本の頑固さが棒のように立っている。それはしなやかには曲がらないので、綾子の頑固さには、いつかぽきりと折れてしまいそうな危うさがあった。
◎ 子犬のような濡れた大きな瞳が、こちらの様子をおどおどと窺っている。彼女は子供がいるように見えない。
◎ 真弓が写真から顔を上げると、肉まんのような顔をだらしなく緩めて、茄子田がにこにこ笑っていた。
◎ 茄子田のことを言われて、祐子は何かが記憶の底の方で引っ掛かっているような感じがした。外国の俳優の名前をどうしても思い出せない。そんな頭の中が痒いような感覚。
◎ かちりと電源が入るように、秀明が連れていた女性と、もうひとつの記憶が繋がった。
◎ 早くひとりになって、今思い出したことをちゃんと考えたかった。心臓が引っ繰り返ったようにどきどきと波打っている。
◎ 化粧をした妻の顔が、能面のように白く燃えている。
◎ 結婚式を挙げ、娘が産まれるまでのほんの数カ月間だけが、夢のように幸福だった。娘が産まれてからの日々は、まるで突然地獄につき落とされたようだった。
◎ 秀明のことを思い出すと、祐子は鉛を飲み込んだような重さを胸に感じた。
◎ 目の前の、自分よりいくつか若い女の顔が、眩量でぐるぐる回るような気がした。言葉が何も出てこない。
◎ 場違いに明るい箱に乗り込み、ゆっくりと下っていく。すべてに現実感がなく、まるで宇宙人にさらわれる夢でも見ているような奇妙な感じがする。





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村山由佳『星々の船』

◎ 場違いに明るい箱に乗り込み、ゆっくりと下っていく。すべてに現実感がなく、まるで宇宙人にさらわれる夢でも見ているような奇妙な感じがする。
◎ 小綺麗に整えられた家並みのところどころにあの頃の面影が残っているせいで、まるで往生際の悪い亡霊につきまとわれているかのような居心地の悪さばかりがついてまわり、
◎ 首の切り口は深くくぼんでいて、中に母親の灰が詰まっているのが見えた。そっと息を吹きかけただけで、はらりと舞う。ゆっくり落ちてくるところを吹くと、再び舞い上がる。闇と薄明かりの間を漂うさまが、まるで雪虫のようだ。
◎ 義理の父に対して常に遠慮のある沙恵を見るにつけ、同情しながらも一段高いところから見おろすような気持ちになった。まるで自分だけが正統な王位継承者であるような、そんな誇らしい気分だった。
◎ あれ以来、貢の家でもろくに食事をとろうとしなかったという姉は、ある日突然、手首を切ったのだった。まるで、風船のひもをそっと放すように。
◎ けげんに思いながらも言われたとおりにしたとたん、彼はいきなり口をすぼめ、まるでブドウの実を吸い取るように沙恵の舌をすすった。
◎ けれど、熱心にせきたてる彼がまるでおもちゃ売り場を見たがる子どものような顔をしているのを見ると、へんに疑っている自分が恥ずかしくなってしまった。
◎ 口をひらきかけてはためらい、また何か言いかけてやめる。言葉にできない思いのぶんだけ、腕が、まるで責め具のようにきつく沙恵の体を締めつけてくる。
◎ ことに暗がりにひそむヒトリシズカの一群は、花が花だけに目を凝らすほどにぼやけて見え、けれど少し視線をはずすと再び、まるで気弱な蛍のように闇に浮かぶのだった。
◎ 〈水島さ-ん、お電話ですう〉/舌たらずな声で呼ばれると、耳慣れた自分の苗字がまるで砂糖菓子の名前のように聞こえた。
◎ 自分にとって父親は、まるで凶暴な神のような存在だった。いつも顔色をうかがって、声がするたび怯えていた。
◎ 胸の奥にはただ、鈍い痛みをともなう侘しさだけが、まるでそれ自体が彼女の忘れものであるかのようにぽつんと残されていた。
◎ 「え-、教科書の二○四ページ、例題の三・:…」/抑揚のない声が、まるで虫の羽音のように頭の上を素通りしていく。
◎ ここ数年、家を出る時に必ずはめていたものが手首にないというだけで、心細くてたまらなかった。まるで裸の胸を隠しながら走っているかのような無防備さだ。
◎ 終日開け放たれたままの縁側からは、風のかたまりが座敷から座敷へと吹き抜けて通り、軒下では風鈴が鳴り、床の間の掛け軸が揺れ、裏手の竹林が大きく揺れると葉ずれの音がまるで寄せては返す波音のように聞こえた。
◎ 女たちがいっせいにふり向いて、立ちすくむ聡美を睨みつける。べったり塗られたアイシャドーがまるで蛾の鱗粉のようだ。
◎ 絵のことを友だちに自慢する気になれないのも、目立つことをできるだけ避けるようになったのも、珠代から受けた仕打ちへの恐怖がまるで心に押された焼き印のように残っているからだと思う。
◎ 夢から覚めて描いているのか、それとも描いている自分も夢の続きなのか、いくら目を凝らしても境界はぼんやりしていて、まるで霧の中で影をさがすかのようだ。
◎ 巨大な雲をごっそりとかかえて、屋根の後ろへ持ち去っていく。どこまで行こうというのだろう。遠く、風の通り道を急ぐ雲たちはまるで、海図さえ持たずに海原へこぎ出す船団のようだ。
◎ 毎年夏が過ぎ、この季節がめぐってきて、庭の木々が日一日と枯れ色に近づいていくのを見るたび、耳元にはあの女のつぶやきが蘇ってくる。そう、まるで水底から浮かびあがるあぶくのように。
◎ 歩哨に立ち、星のひしめく夜空を見上げていると、まるで蜜が歯にしみるかのように胸が甘く癌いた。
◎ 古びた墓石に水をかけ、タワシで磨き上げる。水は思いがけないほど冷たく、風に吹かれた沙恵の指先はまるで梅干しを漬けた時のように赤くなった。
◎ 男たちに運ばれてゆるゆると庭へ出てゆく棺はまるで、今まさに静かな流れを下りはじめようとする小舟のように見えた。
◎ 足元でかさこそと渦巻く枯れ葉の音が、まるで、女たちの笑いさざめく声のように聞こえた。

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帚木蓬生『国銅』

◎ 吹き上がってくる風が岩穴に入り込む音だった。風の微妙な方向の変化で、音はまるで生き物のように低くも高くもなった。
◎ まるで国人の眼が見えない光でも送っているかのように、国人が黒虫を見た瞬間、黒虫は国人の方を見たのだ。
◎ 月明かりが、まるで舟を導くように前方を照らし出している。
◎ 躯の重みをかけて、ひと漕ぎして櫓を海面から出すとき、波のしずくが飛び散る。まるで星屑を手で掬って、散らすようなものだ。
◎ 海面が銀色に光り、日差しを照り返す。まるで日が海の表面で散り砕けたように、熱気が下からも湧いてくる。
◎ 竹筏で、十数台をつなぎ合わせ、前と後ろに舟頭が立っている。十問くらいの長さは、まるで平くったい大蛇が川面を流れ下っているようなものだ。
◎ 眼をこらすと、人足たちが足場にまるで蟻のように群がっている。土を運ぶ者、土をふるいにかける者、その土を足場の上に運び上げる者。
◎ 第三、第四の炉の湯口からも銅が溶け出し、溝から溢れんばかりの勢いで、中子と外型の間にある二寸たらずの隙間に流れ込む。まるで赤い大蛇だった。
◎ 周囲にたちこめていた白い湯気は上に昇り、大仏の肩から上をほのかに隠している。まるで、雲の中に大仏がそびえ立っているような光景だ。
◎ 盛り土の上の静けさは、昼間とは大違いだった。昼間は、大仏の周囲にまるで蟻がうごめたかるように人足が群れ、謡いている。
◎ 死に顔も安らかだった。まるで、花の咲き乱れる春の野に横たわっているような顔で目を閉じていた。
◎ つばめがその枝の下をかいくぐるようにして飛び抜けた。枝についた虫を取っているのだろうが、まるで柳にじゃれつくような飛び方だ。
◎ 身をよじって大声で泣く老婆もいて、周囲の男女もそれに合わせてすすり泣く。まるで泣き叫びが、僧の読経と競い合っているような有様だ。
◎ 三笠山山麓の士は瓦をつくるのに適しており、登り窯がまるでもぐらの穴のあとのように十数本、山の斜面を這っている。
◎ 茅萱の穂が原っぱの表面を白くしていた。まるで海に白いさざ波がたつように、白い濃淡が揺れる。
◎ 遠い国の有様がたった二十か三十の字にびっしりと詰められ、一字一字がまるで練られた棹銅のように重く輝く。
◎ 「雪の日、暗くなってから一斉に湯口を開いて鋳込んだでしょう。溶銅が四方八方から大仏の躯に流れ込んで、まるで赤い大蛇が大仏に走り寄って行くようでした。

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立原正秋『残りの雪』

◎ これから開こうとしている蕾が、紫と白に彩られ思いおもいの風姿で、まるで女が群れているように午後の陽光の下でにぶく耀いていた。
◎ 男達は千枝の躯をあっちに引つくりかえしこっちに引つくりかえして、まるでものを食べるように負り、満腹すると引きあげて行った。
◎ ホームにおりたったら、まるで油を妙るような油蝉のなき声がふってきた。
◎ 車の窓をあけたら、まるで水を流しているような蝉時雨の音がとびこんできた。
◎ 八月のはじめ、田園調布の奇璋堂支店で里子を見出したとき、なにか翳があるが、まるで水を点じたようなその挙措に、これは、と思った。
◎ こちらがいくら粉ごなになっても工藤は煮えきらないで、まるでどぶからガスがぶつぶつ湧いているように、いつまでも現状を維持していた。
◎ 本堂前の二本の梅は、まるでそこだけ白い色を点じたように数輪が開いていた。
◎ 里子はふと足をとめ、午後の空に透けるように溶けこんでいる花をみあげた。
◎ 四十代に入ってからもそれはつづき、五十代にはいったいまは、清例な水の流れのように過去を振りかえることが出来た。
◎ 初江の身勝手さを、里子は、女の生理のようなものだと思った。当人に醜さがわかっていないだけに、まともに応じていたら腹がたつだけだった。
◎ 枝にはどこまでも僥む肉の芯に火の塊のようなものがあり、それが男を焼きつくしてしまうのではないか、と工藤は感じることがあった。
◎ 新しい道は無理に見つけようとして見つかるものではないが、もし見つかったら、それは地下水のようなもので、もっとも清例だろう、とも言われた。
◎ あれは坂西浩平と出来ているな、と弘資は思った。なぜ急にそう思ったのか、ひょっと気がついたときに知る呼吸のようなものだった。
◎ 三堀の妻の肉は、燕しきった皮のような感じがしたが、それでいて脂肪があった。つまり工藤は、上等な脂肪に包みこまれたような感じを経験したのであった。





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新田次郎『栄光の岸壁』

◎ 彼はまるで欲望だけを遂げて、さっさと逃げて行く雄犬のようであった。彼女は手を延ばして、あいさつ彼の足をつかんだ。何らかの形で挨拶の言葉を言わせたかった。
◎ 猿田彦神は(中略)四尺あまりもあって、眼は鏡のように光っていた。
◎ 髭は、いくら殴られても叩かれても、彼に向って来ようとする竹井岳彦が憎らしかった。少年らしく見えなかった。叩けば叩くほど歯をむいて来る野獣のように思われた。
◎ 二人は水槽の中に防空頭巾を被ったままでとびこんだ。頭巾の綿が水を吸うと、鉄兜のように重かった。
◎ 眼下には水無川が見え、眼を西に転ずると富士山の偉容が見えた。沈む太陽を背に負った富士山は巨大な影絵のように立っていた。
◎ 「入ったらいいずらに」と男の一人が言った。赤い楕火に照らされて赤鬼のように見えてはいるが、言葉使いは意外にやさしかったので
◎ 岳彦は、外套を着て、毛布を頭からかぶり、ルックザックに足を突っこんで、吹雪の中に、石の地蔵のように動かなくなった。
◎ 河本はルックザックの中から、米の袋を出した。米の袋は、コンクリートの塊のように凍っていた。
◎ クリスチャンでもない河本が、クリスチャンが神に祈るような姿勢で永遠の眠りに入っていた。蝋のように冷たい皮層の色だった。
◎ ペニシリンを打っても、痛みは止らないし、腫れも引かなかった。両足は樽のようにふくれ上り、腰がずきんずきんと痛んだ。
◎ こんな場合はトップは次々と交替してラッセルに当るのが普通なのに、吉田はいっこうに疲れた様子もなく除雪車のように篶進して行った。
◎ つららはその岩壁を守る白い剣にも、黒い巨大な口を開けて獲物を待っている、岩壁という魔物の牙のようにも見えた。
◎ アイスバイルを風車のように振り廻して、常にトップに立って、氷壁にステップを刻みながら前進する姿は、まさしく″岩壁のラッセル車″であった。
◎ 前後に二つのかかとをつけたような右足は、トマトの皮のような薄い皮層で覆われていた。出血は一カ所ではなかった。
◎ その風に乗って膳が一羽、悠々と円を描いていた。膳の羽根が夕陽を受けると、刃物からの反射光のような鋭い光を発した。

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椎名誠『銀座のカラス』

◎ 亀沼がコートの衿を立て、その中に殆ど坊主に近い丸刈りの頭をまるで本物の亀のようにうずめながら言った。
◎ 頭に看護婦さんのようにグレーのネッカチーフをきっちりまき、まるでペコちゃん人形のような下ぶくれの顔をした店員に病院の名を告げ、場所を聞いてみた。
◎ その有り様はまるでデパートという城を沢山のスーパーチェーンが大きな砦をつくって果敢に攻めたてようとしているようにも見えた。
◎ 窓にはめてあるガラスは表面がダイヤ状にこまかく凹凸のついた特殊な加工がなされているので、その輝き方はまるで太陽光線がそのあたりで音もなくバクハッしているように見えた。
◎ 亀沼は『百貨店ニュース』というその業界新聞の編集長で、髪の毛をやくざか坊さんのようにばさりと丸刈りにしている。
◎ 編集長は山羊のようにぽしやぽしやしたアゴ鬚を生やし、雨の日の沼のようにはてしなく陰気で無口な初老の男だった。
◎ そのためにまだ三十歳だというのに上下の歯はヤニで黒く染まり、右手の親指から中指までへっつい回りの壁のように見事に赤黒く煙にやけていた。
◎ 営業部は旗本退屈男の集団のようにもっと奔放だったから、「要するに金をとってくればいいわけだろう」という武力行使を常日頃からばらまいて歩いている、という気配があった。
◎ 入り口の幅にくらべて中はきんちやくのようにぐんぐん店の間どりが大きくなっていくという不思議なつくりの店だった。
◎ 百貨店ニュース社の年初の顔合わせはそんなふうに大工の建前の宴のように荒っぽくはじめられた。
◎ 暗闇をいく忍者のようにいくつかの角を素早く曲がり、「發中」と小さな電気看板の出ているドアをひらき、どやどやと中に入った。
◎ どうもこのままじゃえらいことになりそうだな、と思っているうちに時間はたつまきのように走り去り、いつの間にか夜あけになっていた。
◎ ひしやげた恰好で寝ている自分と、そのまわりで同じようにこたつに足を突っこんだままくじらのはらわたのようにあっちこつち布団をからめて寝ている他の男たちの姿があった。
◎ Mデパートの桑原とはじめて会った時、すぐにくらべらべらと機関銃のようにはじき出されてきた単語や専門用語に面くらってしまったのと同じ戸惑いをその本の中に感じた。
◎ 信号が青に変わったとたん、大ぜいの人の煙草の煙が蒸気機関車のように人々の集団の後方へもわもわたなびいていくのが面白かった。
◎ 川上はなんだか夜中の怪しい巨鳥のように丈の長いコートをぱさぱさふるわせながら気分のいい声で言った。
◎ 不思議なことに痛みはまるでなく、全身がなんだか風呂上がりの時のようにぐわりとあっちこつちまんべんなくあつくなっているのが変な気分だった。
◎ 白いブラウスの胸を「くいん」とはちきれそうなほどにふくらませた小柄な女性が、松尾の正面に見えた。長い髪の毛を頭の左右に編んでたらし、それがナワノレンのように大きく揺れていた。
◎ 薄い水色のワンピースが、玉虫の翅のように、光や動作のかげんできらきら光った。短い髪はすこし前に流行ったオードリー・ヘップバーンのショートヘアスタイルに似ている。
◎ わけのわからないイラダチが松尾の周囲をくるくると小さな空気の渦のように動き回っているような気がした。
◎ 油っ気のない、つるんとしてゆで玉子のような顔をした四十年輩の主人と、その女房らしいもじゃもじゃパーマのおばさんがカウンターの中にいた。
◎ コートを着たところでまた台所に戻り、壁から下がっている小さな鏡をのぞいてみた。たつまきにかきむしられたワカメ畑のような頭をしていた。
◎ その記者はぐいぐいと突き進む機関車のような力強さで、英文の記録をとっていたのだ。
◎ 三十歳ぐらいの、目の回りに真っ黒なアイシャドウをぐるりと塗りつけた、目玉のおばけのような女が、あきらかにつくりものの笑顔を浮かべて松尾たちを迎え、「いらっしゃいませえ」と、軋んだような声で言った。
◎ タニシが鼻と口のあたりから血を流し、犬のような眼をして松尾に突進してくるところが見えた。
◎ どかどかどか、といきなり太鼓を乱打するような大きな音がして、部屋の中が白い光で満たされた。/ニワトリのような声で女が何人か同時にわめきはじめた。
◎ 引き戸の横に遊園地の切符売り場のような小窓があって、そのむこう側にいる警官と簡単なやりとりがあり、間もなく松尾は押し込まれるようにして、引き戸の内側に入った。
◎ 左の目の下と顎のあたりに大きな病があった。とくに目の下は青病になってそれは小鼻の方向にまでオタマジャクシのような形でひろがっていた。
◎ ビルの外側だけ化粧直しのような工事を何度かやってきたらしく、銀座通り側からみる細長いその外装は中々にモダンで立派に見えた。
◎ 「全国各地で猛威をふるうビッグストァ」という記事を机の上にひろげ、なんだか国を憂える勤皇の志士のような表情で、いつになく生真面目にそう言った。
◎ 店の中央にピアノがあり、桃色のフランス人形のようなひらひらの服を着た女性がなんだかひどく物憂げな気配でピアノの鍵を叩いていた。
◎ 立ち上がった川上はなんとなく試合場に向かうボクサーのようなかんじで肩を左右に振り、力をみなぎらせていた。

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池井戸潤『ロスジェネの逆襲』

◎ ヨースケの事件をきっかけに新聞の株式欄を見るようになった森山が、生き物のように揺れ動くチャートにある種の畏怖と魅力を感じたのもそのときであった。
◎ 生徒の間にあふれていた、ある種能天気で、景気のいい話はとんときかれなくなり、世の中全体が長患いの家族でも抱えているかのように暗く、沈んでいく。
◎ 息を呑む気配とともに、その意味を慮るような沈黙が落ちた。全員の視線が糸で結び付けられたかのように半沢の顔に向けられている。
◎ その後営業を兼務するシステムエンジニアになってプログラミングの腕に磨きをかけながら、三年間ほど馬車馬のように働いたが、会社は倒産。
◎ 株価は値下がりを続け、「また上がるだろう」という世間の能天気な思惑と期待を裏切り、失速するグライダーのように値を下げていく。
◎ 半沢がこたえた瞬間、岡の顎が落ちた。会議に出席している全員の顔が横っ面を張られたかのようにこちらに振られた。
◎ 三笠は、本物そっくりに作られたマネキンのように見えた。デスクの前で直立不動の姿勢を取っている伊佐山に向けられている平板な目は、背中がひやりとするほど怖ろしい。
◎ ようやく発せられた三笠の言葉は、たったいま製氷室から転がり出た氷のように硬く、冷たかった。
◎ いつの間にか発想の柔軟性が失われ、郷田の脳みそはまるで発酵したチーズのように固まってしまっている。
◎ 所狭しと書類が散らばったデスクは、「飛行場のように」デスクが片付いているのが常である半沢にしてみれば、たまにあるかないかの見慣れない光景だ。
◎ 伊佐山だけではない、その瞬間、取締役会は瞬間冷凍されたように静止し、全員がレリーフに浮き彫りにされた人のように動きを止めた。
◎ 副頭取の三笠が力尽きたように頭を垂れた瞬間、それまで飛び交っていた様々な思惑も根回しもコンセンサスも無に帰し、目に見えない残骸のようになって分厚いカーペットの上に放り出された。
◎ 暖房はついているはずなのに、冬の東て付く北風に長時間さらされたかのように頭は縢朧としている。
◎ そうこたえた自分の声は風に舞う枯れ葉のように乾き切り、誰かの発した無責任な戯言のようにその場に舞い落ちた。
◎ 思い詰めたような伊佐山の顔が磁器のように青ざめていく。
◎ かっての部下たちが次々と立ち上がり、半沢を出迎えたからだ。拍手が起き、それはさざ波のようにフロア全体へと広がっていく。
◎ 尾西は、まるで反政府革命を起こす闘士のような口調でいった。
◎ 埴輪のような顔で椅子にかけているメンバーから返事はない。やがて、「すみませんでした」、と三木が詫びた。
◎ 三木からきいた話をすると、瀬名の表情から感情がすり抜けた。半沢に向けられたのは、冬の湖面のような目だ。
◎ 脚を組み、まるでつまらない小説に付き合わされた読書家のような遠い目をして、ゆっくり煙をふかす。
◎ あるいは証券市場っていう現代のコロセウムでの拳闘試合みたいなものかも知れない。どちらかが殺されるまで続く真剣勝負のような
◎ 三笠は、丁寧ではあるが、ひやりと冷たい刃のような目を向けてきた。
◎ 半沢の説明に、会議室は粘土の底に押し込められたかのような息苦しさに満たされていった。
◎ 「やあ、お疲れさま」/まるで季節の挨拶でも交わすかのような穏やかな声で、内藤がいった。
◎ 美幸にも、そしておそらく平山にも、目には見えない薄衣のような疲労がまとわり付いている。
◎ だが、平謝りに謝るのかと思ったふたりから、期待した言葉は出てこない。代わりに伊佐山が向けてきたのは、平板で鉛のような目である。
◎ 半沢が明かす真実はさながら、取締役会の静謡に打ち込まれる杭のようであった。
◎ ほんの一時間前には、眩しいほどに輝いていた将来への道筋は消え失せ、いまの気分は、凍て付く大地で迷い立ち尽くす旅人のようである。

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岩木一麻『がん消滅の罠』

◎ 「がんへの道は長く険しい」紗希は聖書の一節を読み上げる敬虚な信者のように眩いた。
◎ レジャーシートの間をあみだくじのようにしてやってきた森川が手を挙げた。
◎ 「つまんないなあ」羽島はお気に入りの玩具を取り上げられてしまった子供のような表情を浮かべた。
◎ 怒りのあまり顔が赤らみ、鬼のような、という表現がぴったりの形相の学部長が飛び出してきた。
◎ データは平地に鋭い棘のような山型のシグナルが林立する形で記載されていた。
◎ 先生はそう言って立ち上がり、執務机の上の角型封筒から書類を取り出してきて、欲していた玩具を子供に手渡す父親のような表情でそれを座っている宇垣に差し出した。
◎ 宇垣医師は小さく頭を下げた後で花のような笑顔を浮かべ、愛しい人でも見るかのような眼で柳沢を見つめた。
◎ 「がんになってしまう」紗希は神託を口にする巫女のような神妙な表情で言った。
◎ 「うんうん。それで?」夏目は優秀な教え子を見る教師のような表情で森川に続きを促した。
◎ 「すぐにわかります」そう言う宇垣医師とバックミラー越しに目が合った。美しい女性だったが、鷹のような鋭い眼光が目立った。
◎ たたみかけるような夏目をよそに先生はゆっくり時間をかけて天井を仰ぎ見た。まるでそちらの方向に大切ななにかが存在しているかのように。





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東野圭吾『ナミヤ雑貨店の奇蹟』

浩介は、自分が海への入り口に紛れ込んできてしまった小さな川魚のように思えた。世の中には、こんなところがある。
しかしこの総量規制が、ポディブローのように日本経済にダメージを与えていくことになる。
ギネスの瓶が出てきた。彼女は栓を抜き、タンブラーに黒ビールを注いだ。うまい注ぎ方だった。クリームのような泡が二センチほど浮かんだ。
何だろう、この文面は。誘らずにはいられなかった。まるで悪徳商法を操る詐欺師の言葉のようだ。

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百田尚樹『錨を上げよ』

◎ 幅数百メートルを越える淀川の河川敷には空襲の爆弾跡の池や窪みがいくつも残っていたし、家の近くにあった水道局の浄水場の壁には米軍戦闘機の機銃掃射の痕があばたのように残っていた。
◎ この時こそ、イタリア人における「ローマ帝国時代」や、モンゴルの遊牧民における「元」時代のように、作田家にとって最高の栄光の時代だった。
◎ 母は凄まじい言葉を機関銃のように電話口の向こうにいる相手に浴びせると、叩きつけるように受話器を置いた。
◎ ギアも入れずにアクセルばかりを踏み込んでいる車のように、ただ怒りの空廻りでむやみに熱くなっているだけだった。
◎ 広い肩はハンガーのように突き出て、手や足も体にはまったく不釣合なぐらい大きいものだった。
◎ 生徒たちはたちまち狼に睨まれた羊のようにすくんでしまい、おとなしく生徒会の要求を受け容れてしまった。
◎ ぼくはコメッキバッタのように床に這いつくばって、頭をこすりつけた。掌を返したようなぼくの卑屈な態度に、彼らも毒気を抜かれたようだった。
◎ 丹生川という所を過ぎると正面に壁のように聟え立つ山脈を見つめながら走った。日本アルプスと呼ばれるだけのことはあると思った。
◎ 足の筋肉はまるでゴムが伸びきったみたいになっていて、曲げようとすると激痛が襲った。おまけに体中の関節が油切れのベアリングのように、動かす度にぎしぎしときしむ感じだった。
◎ 日本刀を持った兄貴分があっという問に梶棒で打ち倒された。チンピラたちもその光景に驚いたのか、猛牛のようにばく進する労働者の群にたちまち呑み込まれた。
◎ 怒りに燃えた一撲衆の集団は、津波のように建物になだれ込んだ。応接室から一人の「組」幹部がいち早く飛び出し、そのまま裏門めがけて逃げ出した。
◎ こうした想いを抱きながらも、ぼくは西村芙美に対して何をどうなすべきかということはこれっぽっちも考えないでいた。まるで初めてスケートリンクの上に降りた時のように立っているだけで精一杯だったのだ。
◎ 伊賀上の攻めに相手は受け一方に廻った。伊賀上は風車のように打ちまくりながら、最後は頭から突っ込んで力強い胴を決めた。
◎ ぼくの中では、その場の思いつきのような決意や感動が、その後の人生や考え方を支配するといったことは一度もない。それはちょうど、一年生草木がいかに堅く太く、締まった木のようにたくましく成長しても、花をつけた後は根も残さずに枯れてしまうようなものだ。
◎ 彼らも当然、就職組だった。伊賀上らが文字通り最後の夏を躯歌するキリギリスのように遊び廻っているのはわかっていたが、なぜかぼくはそんな気になれなかった。
◎ 法子への想いは、マラリアの発作のように、一日のうちに幾度となくぼくを襲い、胸を掻きむしらせた。彼女はYMCAの夏期予備校へ通っていた。
◎ 人生が何たるかも知らない十代の若者にとって、恋くらい現実を忘れさせるものもない。ひと月を越える長い休みは、ぼくの心を砂漠の太陽のように燃え上がらせていた。
◎ 予想もしなかったその言葉は、鎧通しのようにぼくの急所を深くえぐった。自分でもまったく気付いていなかっただけに、ショックは大きかった。
◎ 彼は仕事中のぼくのオーバーな悲嘆を面白がっていた。ぼくは彼の牛のように働くところを内心では馬鹿にしていたが、その真面目な性格にはある種の敬意を払っていた。
◎ 残っていた日本史と世界史と化学は、参考書をほぼすべて暗記した。これはいささか常軌を逸した無謀さというほかはない。頭の中がぎゅうぎゅう詰めにされているのが、筋肉の一部のようにはっきりと感じ取れるほどだった。
◎ 東大入試の失敗などとうに頭の隅から消え去っていた。人生がバラ色に染まったように感じ、幸運が四つ玉のセリーのように永遠に続いていくような錯覚さえ起こしていた。
◎ 新入生は誰も彼も物珍しさと浮き浮きした気分との両方で、あたかも祭りの露店を楽しむ見物客のように流れにまかせてキャンパスを往復していた。
◎ それでまもなく白色倭星のように巨大にふくれ上がった自らの恋に大いに苦しめられることになった。
◎ 次の瞬間、ぼくの全身は溶鉱炉のように燃えさかった。目の前のテーブルを蹴り倒すと、壁の便菱をひきちぎった。
◎ 一時間待っても彼女は来なかった。ぼくは氷の柱のように立ちつくしていた。うつるな耳には道往く人々の楽しそうな声が別世界の音のように響いていた。
◎ それに十三のガード下や梅田の歩道橋にはいつも白い服を着た傷瘻軍人たちが大勢いた。手や足が取れたまるで壊れた人形のような人間たちの姿は、幼いぼくにも戦争の不気味さを教えた。
◎ 校内はまるで幕末の京都のような緊張に包まれていたし、事実、こぜり合いや衝突はいたるところで見られた。極め付けは、我が中学の池田屋騒動ともいうべき、相撲部による生徒会室への殴り込みだった。
◎ それで初めはアンチ巨人ファンの集まりのような意識で親しくなっていたに過ぎなかったが、十月の初めに三人で応援団の団室に火をつけたことで結びつきが一気に強まった。
◎ 人生という荒野には、その最初から無数の罠や落とし穴が仕掛けられている。ぼくたちは皆、その問をョチョチ歩く生まれたばかりの野生動物のようなものだ。
◎ 日本アルプスと呼ばれるだけのことはあると思った。透きとおったような青い山脈のいたるところに槍の穂先のような峰が鋭くそびえていた。
◎ 相も変わらずぼくの旅は、目的のない逃避行のようなものだった。にもかかわらず自分自身ではその馬鹿さ加減にまったく気付いていなかった。
◎ 最初は火薬庫の前にでも立っているかのような息詰まる緊張感に耐えられないほどだったが、一時間もすると緊張が徐々に去って行き、そのうちにすっかりリラックスしてしまった。
◎ しかし嫉妬という奴は、ちょうど石炭を乾留させてできるコークスのようなもので、普通なら石炭ガラとなるようなものが強い火力の前では恐るべき高温を生み出すがごとく、強烈な恋の炎の前でもまた一層それを燃え立たせる役割を負っていた。
◎ 「不潔な言い方しないでくれる!」/芙美は目を吊り上げて言った。ぼくは猛禽類に睨まれた鼠のような気がした。
◎ しかしぼくの言いたいのは、ただ「才能」のことだけを捉えてみても、人生には無限に広がる迷宮のようなものが潜んでいるということだ。
◎ 彼らが「反対」に印をつけたのには、哀れなメディアが不実の夫イアソンを苦しめるために愛する我が子を投げ捨てた時のようなやけくその心境でもあったのだ。
◎ ぼくの恋は、初めからウィナー・テーク・オールの取り決めで行われる試合のようなものだ’つまり負ければ何も残らない。しかも、いつも痛烈なノックアウト負けばかりだ。
◎ しかし、こんなふらふらと波間を漂う流木のような生活も長くは続かなかった。一週間ほど経ったある日の昼下がり、突然の嵐とも言える、親父の訪問を受けたからだ。
◎ その意味ではもしぼくが、ほんのわずかな水の変化で死に絶える岩魚のような敏感な性質だったら、こんなサークルでは三日も持たなかっただろう。
◎ おそらくクセルクセス王の兵隊たちがもぬけのカラとなったアテネの町で狼籍を尽くしたり、ナポレオン軍が同じく空になったロシアの諸都市を焼き払ったりした時のような憎しみを持って、彼らはぼくの部屋で暴れ廻ったに違いない。
◎ 彼女への想いをふつきる場合においても、少なくとも三ヵ月はかかるものだと割り切っていたし、無理矢理に消し去ろうなどとは思っていなかった。それはちょうど心の傷口の上のかさぶたのようなものだったからだ
◎ 約束の六時になっても純果は来なかった。それからは一分一分が死にも等しい拷問のようなものだった。様々な想いが心の中を凄いスピードで駆け巡った。
◎ 必死で抵抗したのがなお悪く、結局滅茶苦茶に殴られ、奥歯を一本叩き折られ、顔はバスケットボールみたいにされた。
◎ 接待ゴルフや上役の付添いゴルフと思えるようなメンバーに当たることはよくあった。誰かの一打ごとに、みすぼらしいまでのお世辞を連発する二流の箒間みたいなオッサンがいるからすぐにわかった。
◎ それでいてポケットにいつも何枚も千円札を突っ込んでいるのに慣れてしまうと、空っぽの時は、まるでパンツでも穿き忘れたみたいに、何か落ち着かない気分になってくるのだ。
◎ 木元に気をとられていた上、竹刀が下から飛んできたのでよけきれず、まともに人中に喰らった。ぼくの鼻からはみるみる鼻血が吹き出し、まるでゆるんだ水道の蛇口みたいにぽたぽたと床にこぼれ落ちた。
◎ 病院へ行くと、助骨が三本折れ、両腕と頬骨にはヒビが入っていた。おまけに前歯は上下ともぐらぐらになっていたし、両目とも玉子みたいに腫れあがって完全にふさがっていた。
◎ ぼくは廊下を走って逃げた。すると彼は大きな声で「待て!」と言って追って来た。その声で幾つかの教室から教師が蟹の目玉みたいに顔を出した。
◎ 彼女の姿が地面の穴に吸い込まれるように消えると、自尊心だけでどうにか肉体を支えていた最後の力もぶつつりと切れた。登板するなり連打を浴びせられた末、最後は痛烈な満塁本塁打を打ち込まれた投手みたいに、その場にへたり込んでしまった。
◎ ぼくと井上は小踊りして、ただちに二階の渡り廊下に運び上げる作業をした。それからの二人はまるで映画のコマ落としみたいに激しく動き廻った。
◎ ん人生ぐらい複雑で謎に包まれ予測のつかないものもないだろう。野球の試合みたいに最後の打者がアウトになるまで何が起こるかわからないということも言えるかもしれない。
◎ 一週間もしないうちに二人は学校中の噂になった。キリンみたいに背の高い彼女はどこでも目立った。
◎ 女の子たちはアヒルみたいに声を揃えて「えI!」と言って目を丸くした。「どうやって入って来はったんですか?」と聞いてきたから、「塀を乗り越えて、美女の館に乗り込んで来たんや」と答えると、女の子たちは喜んだ。
◎ ぼくときたら、言うなれば水だろうが泥だろうがお構いなしに棲息するタイワンドジョウみたいなものだったから、労働の強制もなければ物理的および時間的束縛もないこのサークルに居続けることにそれほどの苦痛は感じなかった。
◎ しかし恋というやつは、仕事や勉強みたいに階段を一段一段昇りつめなくても、うまく行く時には一足跳びに最上階まで駆け上れることがある。ぼくが期待していたのもそれだ。
◎ 数分おきぐらいに恋しさと怒りの波が心を襲い、その度にぼくは電話に向かって動き出しかけてはやめるという、まるでサーモスタットみたいなことを繰り返していた。





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有川浩『フリーター、家を買う。』

◎ ああ、とその場は頷いたものの、会社に戻っても津波の前兆のようにドン引きした誠治のキモチは戻ってこなかった。
◎ 「……許してやれなかったの」/誠治が朝食の席で訊くと、亜矢子はライオンのようにトーストにかぶりついた。/「今、あたしにそれを訊くな」
◎ 最後の質問などは「決まってたら応募なんかするわけねえだろ」と怒鳴りたくなった。/履歴書はローテーションのように受けた会社の順番で無慈悲に戻ってくる。
◎ 改めて思い返すと亜矢子のこの家での存在は大きかった。荒馬のように気が強い恐怖の姉ではあったが、亜矢子がいた頃が一家は一番平穏だった。
◎ 今の家に住んでいる限り、昔の母に戻ることはないI。その宣告は、楔のように胸に打ち込まれた。
◎ 箱の中の三毛はまたサイレンのようにピャーピャー鳴きはじめた。
◎ 居間のソファでゆらゆら揺れていた寿美子が棒読みのようなか細い声でそうねえと答え、誠治は買い物袋を慌ててキッチンに運び込んだ。
◎ こうした傷は塞がっても痕が残ると外科に言われた。もう寿美子は半袖で外に出ることもできない。寿美子の左腕には人が見たらぎょっとするほどの千切りのような痕が残るのだ。
◎ ここらの主婦の世界は狭い。足早に立ち去る西本のおばさんの頭の中は、テンプレートのような最悪の事態が渦巻いているだろう。
◎ シャベルを倉庫に返して事務室に戻ると、ドアの外にまで聞こえるほど大きな鳴き声がした。腹を空かせた子猫独特の短いサイレンのような鳴き声である。
◎ 亜矢子の腫れ上がった頬を見て疑ったらしい。亜矢子はにっこり笑って腫れた頬に手を添えた。まるで勲章を誇るように。
◎ 抑揚のない声に自分のほうだけが通常の抑揚をつけて喋るのは、まるで無機物か言葉の通じない幼児に喋っているようで苦痛なことではある。
◎ そう言って両親の寝室を開け、一瞬言葉を失った。まるで空き巣に荒らされた後のようだった。薬が見つからないのでやみくもにあらゆる部屋を引つくり返したのだろう。
◎ まるでかさぶたを剥がすような言葉に釣られるように、武の表情も軽い痛みをこらえるようになった。

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小林信彦『夢の砦』

◎ 長身の男は、いかにも寒そうだ。主義だかなんだか知らないが、オーバーを着ればいいのに、と辰夫は思坊計測が吹くたびに身体を半回転させるのが、糸の切れた奴凧のように見える。
◎ ゴム仮面は呪文のように繰りかえしながら、剣山を佐伯の髪にあてて、ブラシのように動かし始めた。
◎ レジャーという語が合言葉のように飛び交っているにもかかわらず、だれひとりとして遊んではいない。忙しく動きまわることによって、自分が無能ではないと信じ込みたいのだろう。
◎ ビデオテープのおかげで番組づくりはラクになり、ミスもなくなったが、そのぶんだけ、テレビは味気ない罐詰食品のようになった。
◎ よくよく眺め焔蛙、酔いつぶれているのではないことがゆかわかった。猫が喧嘩するときのように、床に低く伏せて、じっと睨み合っているのだ。
◎ 辰夫は、彼女のひとことをジグソー・パズルの気になる小片のように覚えていたのだが、これで、ようやく、どうしても埋まらなかった、頭の中のパズルが完成したことになる。
◎ 地方出身者が帰郷したあとの街は、撮影所のオープンセットのようにがらんとしている。
◎ 外部で、悪の根源のように見られている赤星・プロが、この男にとっての〈夢の砦〉であることもまた、認めざるを得なかった。
◎ われわれは、犯罪事件の中心人物の内部に、しばしば凄まじい情熱恋愛を発見するが、狂気に近いそれは、大衆によって疫病のように遠ざけられている。
◎ テーブルの少なさが、格式に通じると思い込んでいるのではないか、と反感を抱くほど、マネージャーは気取っており、ョ-ロッパ映画の中の人物のように、右手を派手に動かした。
◎ 現実をハリウッド映画のように見る癖から抜けきれない彼は、どんな危機に陥っても、どんでん返しの果てのハッピーエンドがあるはずだと考えていた。
◎ 怒りの発散させようがなかった。コレステロールのように血管内に貯め込むよりあるまい。
◎ あまりにも凝った表現をするので、下手な直訳文のようになり、辰夫も石黒も、意味がわからないで終る場合があった。
◎ 小鳥の餌のようなサンドイッチだった。こんなものなら、あと二皿食っても、まだ足りないだろう。
◎ それから、身体に注意してくれ。創刊号が店頭にならぶまでには、無数の雑用がある。ハードルレースのようなものだ。身体をこわしたら、きみの負けだぞ
◎ 金井はひたいをあげ、オタマジャクシのそれのような小さな眼で辰夫を見つめる。
◎ 出版社の雑誌を大量販売の菓子だとすると、われわれが作る雑誌は、たかだか、横町の気むずかしい親父が、手焼きで、ほんの少し作る煎餅のようなものだ。
◎ 卓上には、日本酒と、小さな四角い皿にラッキョウの親玉のようなものと南蛮漬けのシッポがのったのが、あるだけだ。
◎ 「ないと言いきれるかね」/不機嫌な象のような眼が辰夫を一瞥した。
◎ 外科の小道具のようなもので、辰夫はエスカルゴの殻を挾もうとするが、うまくいかない。殻は、ガーリックの青汁をまき散らしながら、皿の外に転がり出る。
◎ パンナムの袋に肘をついて、ぼんやりしている辰夫の前に、スローモーション撮影のような動きで、戸波の顔が現れた。
◎ その声はヘリコプターの羽根が叩きつける強烈な音にかき消された。川合の蒼白い顔が怒りに歪んだ。巨大なミキサーのような羽根が痙蟻するように上昇してゆき、茶色く染った空めがけて去るのを辰夫は見つめていた。

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唯川恵『恋せども、愛せども』

◎ 「嫉妬なんてものは、相手と対等になってから持つものだ」/言葉そのものが尖った刃のように理々子の喉元をかすめた。
◎ 「やっぱりね。二人の雰囲気、とてもいい感じだったもの。それで結婚するの?」/「ああ、来年の春を予定してる」/倉木はさらりと、まるで足元を吹き抜ける夜風のように答えた。
◎ 金を受け取って、割り切る選択もあるだろう。おとなしく受け入れれば、次の仕事が貰えるかもしれない。けれども怒りは治まらなかった。泡のようにふつふつと胸の奥底から立ち上って来て、理々子は唇を噛み締めた。
◎ 聞こえてはいるのだが、雪緒はそれを実感できずにいた。音羽から聞かされた言葉が、頭の中で、濁った液体のように揺れている。
◎ そう思い巡らせてから、ふと、闇のような不安がするりと胸の中に流れ込んできた。
◎ その料理が出てくる前に、もう理々子は冷酒に変わり、倉木は焼酎を頼んでいる。やがて頭の中に温かな膜のような酔いが広がって、ようやくほっとする。
◎ 老いは確かに肉体に現れる。けれども、本当の老いは、その内側にあるものが朽ちることなのだとわかる。目には見えない、こまかな亀裂のようなものが川出老人を覆っている。
◎ その人の言葉がまるで小説の一節でも読んでいるように聞こえて、胸の奥底に沈んでいたさまざまな感情の中の、もっとも強張ったものが、頭をもたげた。
◎ 長峰の妻が去ってからも、雪緒はしばらく動けなかった。中途半端に空気の抜けた風船みたいなぼんやりした空間が、頭の中に広がっていた。

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影山雄作『この世の果て』

◎ その日は地球上のあらゆる塵という塵が成層圏の郊外にピクニックに出かけたかのように空気が澄み渡って、太陽が沈んでも、空は昼間の清澄な色相を忘れないでいた。
◎ 「自首すりやいいってもんじゃないだろ-」/苛立つ武藤克彦に、若い警官の声はカウンターパンチのように届いた。
◎ 眼が覚めると時計は未だ五時に近い時刻を示していたが、山口猛の頭は葉を落とした広葉樹の森のように視界が開けていて、身体が熟睡したことを示していた。
◎ 正月らしく真っ青に晴れ上がった空の片隅には、あの夜陸橋を見下ろしていた剣呑な雲が、岩陰から羊の群れを覗く狼のように下界を窺っていた
◎ けれど、眼は武藤克彦の輪郭をなぞり終えると、掌に落ちた雪片のように険を消し、眼尻には皷ができて、綻んだ唇が、お-つ!と大きな声を発した。

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辻 章『青山』

◎ よほど深く寝入っているのだろう、玲は枕に置物のように頭を載せ、呼吸の気配も感じられないほどだった。
◎ また甲高い犬の声が入って来た。夜の闇に怯える赤ん坊の泣き声のように、犬の声はキャンキャン、キャンキャンと、なかなか止まなかった。
◎ 叫び合うたびに、絡まり合う憎悪が互いの肉の中に、紅色の毒々しい姿をした肉腫のように、一層深々と喰い入って行く。それが、眼に見えるようだった。
◎ そうしてその放心への罰のように、その後で必ず私に、ひりひりとした焦燥の匂いのする妄想をかき立てさせた
◎ そして気がつくと、暗い眼の底から時々ふっと生まれて間もない赤児のように、無心な笑顔を私に向けて来る瞬間があるのだった。
◎ 雑食動物のように、ジャンルも程度もおかまいなしに、書棚から本を次々と引っぱり出し、狭い通路でがつがつと頁を開いた。
◎ 様々な想像が私の中を、頼りない霧の流れのように通り過ぎた。固く口を結んで私の祖父母の墓に見入る里津子の姿が、もう一枚の写真のように、私の中に残った。

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貴志 祐介『悪の教典』

◎ 一人、また一人と生徒に命中する。被弾した生徒は、影絵人形のように平くったくなって、舞台から奈落へ転げ落ちていった。
◎ 田浦潤子教諭は、早くも出来上がっているらしく、湯上がりのように上気した顔で誘う。ボックス席の隣に座っているのは、数学科の真田俊平教諭である。
◎ 鉄縁眼鏡のレンズ越しに、細く吊り上がった目が動く。黒目が不自然なほど小さく、視線は錐のように鋭かった。
◎ 清田は、小さな目を三角に怒らせて言った。日に焼けた顔はただでさえ脂っぽいのに、前頭部に島のように残った髪は、整髪料でべとべとになっている。
◎ 蓮実は、巣にかかった獲物を縛り上げる蜘蛛のように、甘言の糸によって、久米教諭をがんじがらめにしていった。
◎ 左利きだったので、テニスのスマッシュのように大きく左手を振りかぶって、力いっぱい聖司をビンタしようとする。
◎ あれほど、馬鹿にし、空気のように無視していた級友の死に対し、驚いたことに、女子は等しく涙を流し、男子もひどく落ち込んでいた。
◎ 大村は、肢をもがれるキリギリスのように身を震わせていた。
◎ 他の餓鬼どもが豚小屋の豚のように弛緩しきった雰囲気なのとは好対照に、二人だけは、明白に異なったオーラを放っているようだ。
◎ いつもなら、校長の顔を見ただけで、生徒の瞼は鉛のように重くなり、三分もすれば、熟睡者が続出するというのに。
◎ 今の子供たちは、洪水のような情報にさらされているため、速射砲のような早口でも、充分、ついてこられる。だめなのはむしろ、スローすぎる話し方や、熱意やエネルギーの感じられない態度だった。
◎ 猫山教諭は、チェシャ猫のような含み笑いを漏らした。
◎ いつもと同じ石の地蔵のような無表情で、視線は真正面に固定され、微動だにしない。
◎ 蓮見が愚痴ってみせると、聡子は、かすかに微笑んだ。小さな唇の間から、真珠のような歯がこぼれる。
◎ 酒井教頭は、センブリを舐めた猫のような顔になった。他人に問題を投げるのはいいが、逆に投げかけられるのは、大嫌いなのだ。
◎ 楽しい時間は過ぎるのが早く、あっという間に夕方になる。真っ赤な夕焼けが湖面に映えて、まるで血の海のような異様な美しさだった。
◎ それだけ言うと、くるりときびすを返して、ロボットダンスのようなぎくしゃくとした足取りで、立ち去った。
◎ 蓼沼と壮絶な殴り合いを演じたときには、怖くて近寄りがたい感じがしたが、今は、愛嬬のあるラクダのような笑みを浮かべている。
◎ 教師に対して幻想は持っていなかったが、学校というのは、青少年にせこい大人の姿を見せつけて、同じような人間を作り出すための鋳型のような気さえしてきた。
◎ 大村は、ナイフを蓮実少年の喉元に突きつけた。蓮実少年が無言なのを、怯えていると勘違いしたらしく、ヒラメのような顔に笑みを浮かべた。
◎ そこに立っていたのは、釣井教諭だった。くたびれた茶色の上下。出席簿を小脇に抱え、硬直した人形のような姿勢。表情を失った生気のない顔も、いつもと同じである。
◎ 清田は、腕組みをすると、まるで野生動物が自分を少しでも大きく見せようとしているように、胸郭を膨らませた。
◎ ご褒美に、さらに深く突き入れてやる。美彌は、まるで電流に打たれたようにのけぞり、必死になって保っていた思考能力は、どこかへ消し飛んでしまう。





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